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( 世 界 崩 壊 の 音 ) 沈んだ太陽はまだ地平線から微かに橙のひかりを放っていた。 四肢を投げ出して横たわった地面は、自分の血で微かに濡れている。下郎どもに叩き付けられあちこちが痛んだ。肌蹴た着物を直して体勢を立て直すと血の滲んでいる膝が目に入った。それを見るともうやる気もなくなった。母が自分を売ったことも、もうどうでもいい。 どさ、とその場にまた倒れこみ徐々に暗く群青に染まる空を見ていた。 「……元気でなあ、」。母の最後の言葉。仕方のないことだった。飢えでこれ以上面倒も見られぬのならどこか他所で幸せになってくれという親心だろう。分からぬ筈がない。毎夜毎夜泣く母を見ていたのだから。それでも、母に売られても、自分は幸せだったと思いたい。自分は不幸な子じゃない。と。 滲む涙は悲しいからじゃなく夜の静かさの所為だ。 音が聞こえたのはそれから一刻ほどしてからだ。金平糖を零したみたいにきれいな夜空だった。 「坊、うちへ来るかい?」 からんからん、と下駄の音が静かな夜に木霊する。 その人のむこうには仄かに光る月が見えた。その人は金色の光りを浴びて眩しいくらいにうつくしかった。藍色の淡く長い髪に陶器のような肌、きれい。 「……誰、」 もう瞼を開けるのも辛かった。重たい体は地に沈んでいくようだった。ずぶずぶと、もう帰ってこられないくらいに。こんな小汚いガキを拾うなんて、なんて酔狂な女だろう。 そう思ったのを最後に、ぷつりと意識が途絶えた。 ゆるりと薄汚い手が首に回された。ごつごつと農作業で肉刺だらけの汚い手。ぼくはこの手を知っている。少し小さな手にゆっくりと力が籠められていく。ぎりぎりと締め上げていく指からは憎悪が見えた気がした。蛇のようだと、思った。巻きついて離れずしつこく毎夜締め上げてくる。これは罰なの、 (母さん、) ぱちり。 目を覚ますと高い天井が目に入り鼻をつく煙草の臭いがした。じっとりと汗が滲んでいるのは、夢の所為。悪夢というには、大袈裟だろうか。緩く呼吸を整えて手の甲で汗を拭った。 「坊、平気かい」 低く穏やかな声のするほうへ目を向けるときれいな人がいた。月明かりの下で見た、きれいなひと。坊、と呼ぶ声は愛撫されているようで心地よく、くすぐったい。身を捩ると眠っていた自分に掛けられていたであろう布団が落ちた。 「……誰」 「千景というよ。坊、名は」 「鉄之助………榊、鉄之助」 「勇ましいな名だな」 はは、と笑ってそのひとは煙管(きせる)を吸った。ふわ、と白い煙が上がった。 ふと気付けば、自分の居る場所は遊郭だった。そのひとの着ている着物は女物の華やかな男を誘うもので、白い首筋は触れるものに吸い付くように見えた。藍の髪は緩く結ってはらはらと撫で肩を流れている。うつくしいひと。柔らかいからだを幾多の男が抱いたの、 「坊。お前、此処で働きなよ」 「何故」 「気に入ったからさ」 私が、と続けてまた笑った。ふふ、と。くちの端を上げて綺麗に笑うと、くん・と胸がなる。膝を立てているせいで着物が肌蹴け白い太腿がちらちら視界に入る。掌に顎をのせて笑みながらこちらを見てる。 ぎゅう、と落ちた布団を握り締めた。 「僕は男だ」 「――私もさ」 また、笑う。 「坊、女子と思ったのか」 くく、と笑を咽の奥で殺して微笑む。こん、と煙管を逆さに叩けば火種が蛍のあかりのように火鉢に落ちた。細く長い指は暫く煙管を弄っていた。 男。これだけの美貌をもっていれば男でもいいのか、と妙に納得した。確かに男といわれれば男に見えなくもない。ちらりと時たま覗く表情は異様な色気があった。(男特有の、いやらしさ、) 「……抱かれろ、と?」 言葉を紡ぐとそのひとは目を見開いた。かと思うと、急に笑い出した。大声を出して、如何にも抑えきれぬといった感じで。手で腹を押さえながら。 「坊! お前、なかなか面白いじゃないかっ」 この店で男は十五にならなければ働けないよ、と言った。ここら辺で有名な遊郭だ。知らぬほうが可笑しかった。頬に熱が集まっていくのが分かった。そして、自分はまだ十になったばかりだと。 「は、はは……そう睨んでくれるな。坊、」 下から見上げるようにしてそのひとを見るとうっすら浮かんだ涙を拭っていた。肌蹴た着物がずり落ちた。きちんと着られないのか、着ないのか、帯も緩く巻かれているだけだった。肩が覗き鎖骨が見え、しろい胸板がみえた。そこに女性の乳房はなくやはり男、と再認識した。 「ふふ。――坊、いやらしい目をするンじゃないよ」 また、く、と笑って口の端を上げた。ずり落ちた着物を肩に戻し、そう言った。このひとの方がよっぽどいやらしい。「欲情した獣になるぞ。まだ子どもだろ」、と目を細めて呟いたけれど子どもでも知っている事は沢山ある。獣というなら人は既に獣だ。ひとは欲望を叩きつけて生きているンだから。熟した果肉を頬張る様にその肌を汚したいと思った。(ぼくはもうけものなのかもしれない、)。 「坊、」 するりと伸びてきた手は頬を包んだ。ひやりと少し冷たい手のひらは、母のものよりずっとずっと、うつくしかった。 「な、にを、」 あまい蜜の匂いがした。禁断の果実をくちにした時のような、快感。人は今もその原罪を背負っているけれど、この罪は誰が背負うの。背負えるっていうの。蛇のようにたやすく偽ってぼくを制す。抗する事が出来ないって、知っているように、捉えて離さない。エデンを追放されたひとは、どこへかえれば良いの。 わからないよ。 離れた唇はどちらのものとも分からない糸を紡いだ。欲情したのは、あんたじゃないのか 「ハ、坊。真っ赤だね」 頬から手を離し、笑う。どうやら笑い上戸のようで、そのひとはくつくつとまた微笑んだ。 確かにぼくの頬は熱く上気しているであろう。でも、艶っぽく濡れたそのひとの唇を見て、いっそう熱は増した。ぞくぞくと背を何かが駆けていったのを感じた。 「おいで、」 再び頬を包んでそのひとの方へと引き寄せられた。 きっと戻れない。このひとが頬に触れた瞬間から、このひとの名を聞いた瞬間から、このひとと、出会ってしまった瞬間から。もう戻れない。もとより、戻る場所などないのだけど。それでも、戻れないと、知ってしまった。 蜜に堕ちた。どろどろに溶け合って絡めて絡まって、身も心もぐちゃぐちゃになってしまって、それでも、甘い香りはずっとしていた。噎せるほどの色香に酔いながら、かえるみちを、見失った。 (さよなら、ぼく、) 「……ぁ、」 喰むように、貪るように、口付けを交わした。 おわることのない快楽は、きっと、ぼくらに科せられた罰。喜びじゃなくて慈しみじゃなくて、ましてや愛なんていう生易しいものじゃなくて。 そう、きっと、はじまってさえいない性交を恐れる幼子のように、愚かで浅ましいひとという生き物に科せられた罰。与えられる快楽に、ただ身を任せていよう。それが虚偽だと気付くまで 「鉄之助、」 はぢめて呼ばれた名は、とてもいやらしい気がした。 求めるように、縋る声。 (きっともう、気付いていたンだ、あのひとも、そして、ぼくも) (――――ち、かげさ、ん) 紡ぐことのできない名前を心の中で唱えた。きっとそれは禁忌。うつくしいものに騙されながら夢を見ることが、どういうことか知っていたけれど。 みみもとで、世界が崩れていく音がした。 |