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( 重 い 空 の あ お さ ) 行灯の明かりが煌々としている。冷たい闇に浸るように身を任せ、ただそこへおちていった。伸ばした手は何も掴むことが出来ずに空(くう)を切り、ひえた指先に触れたのは其処に在る孤独だった。いくら体を抱かれても満たされることはなく、それは無意味な遊戯にしか過ぎなかった。掻き抱くように力が籠められ、このまま壊れてしまえばらくだろうにと、幾度も考え、また絶望した。どれほどそれを望んでも体は貪欲だ。あの快楽を忘れられないのだから。 「……千景。何を、考えている」 ただ無意味な遊戯だけが残された逃げ道のようだと、頭の片隅で思い、く、と笑みを噛み殺して汗ばんだ男の背に手を回した。 (ああ、此処で息絶えてしまったのなら、どんなに幸せなことか) 脳裏に過ぎったのは、あの無邪気な子どもの顔だった。 XXX 「千景さんっ!」 まだ朝の空気が冷たい時期。澄んだ空気は心を穏やかにし、頭を冷静にさせる。獣が失くした理性を取り戻したように。 (ばかだ。獣は理性など持っていない。そしてそれは、偽りのものでしかないだろうに) 薄い膜の張った空は、灰を被ったように色素を持っていなかった。それがひどく悲しいものに見えた。色を持たないと言うことは、此処に自分が在ると証明できないことだ。それは、辛い。自分が認めずに誰が自分を分かると云うのだろう。血の繋がりの在る肉親でさえも分からぬことだと云うのに。(ひとのこころほど、やっかいなものはないな)。呟いて自嘲した。 駆け寄って来る子どもは、頬と鼻それに耳が真っ赤になっていた。寒さの所為なのか全体が震えているようにも見え、またか、と溜息を吐いた。 「坊、何か羽織っておいでと、いつも云っているのに」 「……ぢゃあ、早く戻りましょうよ」 「仕方がないねえ」 すっかり冷え切った子どもの肩を抱き、自分の羽織の中へ抱き込んだ。薄汚れた洋服も肌もこの子が生きていく上で出来たもので、なぜか、うつくしいとおもった。必死で生き抜くことが泥に塗れ人に罵られながらも生きていくことが、強さだとしった。この子は、強いな。 一回りも小さな体を抱きしめると、どくんどくんと心臓が脈打っていた。 「ちかげさ、」 「ハハ、坊、お前やっぱり冷たいな」 後ろから抱きしめると改めてこの子が細いことを知った。ちゃんと飯も与えているというのに、ふくよかになる気配が一向に無い。皮と骨だけだ。 何か異様な雰囲気を感じたのかゆっくりと振り返り不安そうに見上げてきた。ふ、といやらしく口元を歪め、柘榴の実のように赤くなった頬に口付けをしてやると、体がびくんと一度震えた。いちいち小さな反応が心を動かす。こういうのを何と云うのだったかな。 「あなたは、またっ」 犬歯の生えた小さな口が開かれると非難の声が紡がれた。まだ子どもだからか、こういうコトには不慣れなのだろう、些細なことでも反応する。それが面白くてつい手を出してしまう。いけないな。あまり慣れ過ぎてはいけない。 くすくすと笑いながら抱きしめた腕に力を加えると今にも壊れてしまいそうだった。昨夜夢見た崩壊が始まる。 と、子どもの目が細くなり、感情が静まっていった。石を投げ込んだ池がまた静けさを取り戻したように。荒立った海が、何事も無かったかのように波打つように。眉を顰めて、口を開いた。 「千景さん、そのくび、」 ああ、と。理性とも云うべきものが這い上がってきた。わたしは遊郭の若旦那だ。今この瞬間、それを忘れていた。阿呆だな。ここでしか生きていけぬのに、何を。 「……あぁ、これかい。昨日の客は御偉い方でね、特別私が相手をしたのだよ」 首といわず胸にも太腿にも咲いた赤い華をみて、子どもは眉を顰めた。軽蔑や嫌悪ではないと知っている。この目は、恋に狂った男の目だ。わたしはこの目を知っていた。昨夜も、この目をした下郎に抱かれていたのだから。 「千景さんも、客を取ることがあるのですね」 偉い方なのに。と続けた。冷淡で温かみの無い言葉を吐く子だ。ただ言葉を紡いでいるだけで、視線は真っ直ぐどこか先を見ていた。次第に瞳が濁ってゆく。ああ、獣になってしまうよ。 「坊、もういいよ。考えるな」 小さな肩に顔を埋め、片手で子どもの両目を覆った。もう一方の手を子どもの手に絡め、きつく握った。離れるなと思いを籠めながら。 みなくていい。しらなくていい。汚いものなどこの世にありふれているのだから、せめて、この瞳がうつすものはうつくしくあってほしいと願う。それは傲慢だろうか。燐寸(まっち)のように儚くいつでも散ってしまう命。あまりに、触れ合いすぎた。感情など無駄だ。誰かのために泣き笑い、それがどうなるのだ。肉親の愛など知らない。ただ肉体を求める雄など死してしまえばいい。 ――憎しみも、要らぬ感情だと云うのに。愚かなのは、わたしだ。 「………ごめんなさい、千景さん」 いつの間にか眉間に皴が寄っていた。らしくないな、と心で嗤った。 言葉を発した子どもは動かなくなったわたしに何かを感じたのか、弱々しく謝罪のことばを紡いだ。 「ごめんなさい……」 すっかり落ち込んだ様子で、しおらしい姿に少し吹き出してしまった。自分の服の裾をぎゅっと掴んで俯き、今にも涙を零しそうだった。愛いな、と少し愛しい気持ちを抱いたが、それをすぐに打ち消した。それは、いけない。 「さて。鉄之助。陽も出てきたし、蓬華へ戻ろうか」 「……はいっ」 鉄之助、と呼ぶと至極嬉しそうに微笑んだ。常に「坊」と呼んでいる所為なのか、たまに名前で呼んでやると子犬のように喜ぶ。それがわたしも嬉しかった。 後からついて来る子どもは楽しげにかけて来る。蓬華の「蓬」は蓬莱から取ったものだ。支那(中国)の神話で異国の国とされている。わたしたちの住む蓬華も異国のようなものだ。欲が入り乱れ、其処でしか生きていけぬわたしたちは、なんと醜いのだろうね。閉じた瞼の向こうから希望が差し込むことは無い。いや、自分が望んでいないのだから、あたりまえか。 羽織を整え、髪を結った。藍の髪が揺れる。緩く結った髪に何人の男が口付けをしたのだっけね。数えるのもおぞましい。穢れを知らずに生きている子どもが、ただ眩しかった。(いや、よくにおぼれていないから、わたしにはまぶしかったのだ) この子は分かっている。自分の抱いているものが、決して叶わないものだと。そしてわたしも分かっていた。鳥篭の鳥は、籠の戸が開いていても外には出られぬと。外の世界では生きていけないのだと。 (しょせん、ここでしかいきていけぬさ) 晴天の青空に潰されそうになりながら、撓った背骨が歪んでゆく。 |