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( かみさまはしぎゃくてき ) すう、と刃を引くと白い線が出来て、それがぱっくりと割れると赤い血が滲む。段々と膨れ上がっていって溢れた欲望は洗面所に滴った。血痕を残して何処に旅立とうか。きっと彼なら探し出してくれる。愛とかいう、呪いの言葉を並べて。(しばられているのさえ、ここちよい)。 カシャンと音を立てておれの手の中からキョウキが落ちた。止まることのない欲望がキョウキの上にも滴り落ちてキョウキを飲み込んでいく。醜い赤。一体いつになれば枯れてしまうの。咲き誇る華なんて、すぐに散ってしまうのに。どうして枯れないの。命の重さなんて、どれも一緒だろうに。くだらねえ。 「……神楽、またシタの」 「ん。おはよ、相楽」 洗面所の鏡の向こうから声がした。なんて、本当はすぐ後ろから。まだラフな格好で、寝起きの彼は重たい瞼を無理やり上げているようだった。きらり。光ったのは、毛細血管のはしる薄い瞼の下。真っ黒な瞳が黒真珠のように煌いている。夜の住人のように闇の衣を纏う彼の姿は、手を伸ばしても届かないと知っているけれど、月を望む子どものように無垢で、ただ性欲に溺れる女のようにしたたかだった。 「きれいだね、あか」 そう云って後ろから抱き付いてきた。首に手を回して、肩に顔を埋めるようにして喋るから、くすぐったかった。この歳になってもアマエンボウ、ってか。笑える。 「なに、へんなこといった?」 きょとん、と首を傾げる様子が目の前の鏡に映っていた。まるで子どもだな。無垢で、したたかで、純粋で、残酷で。恐ろしいな。その全てをもっておれを暴こうとする。楽園を追放されたアダムとイヴのようだな。(しっていたか。あれはイヴが、へびのゆうわくに、まけたんだと)。無垢な子どもは罪を知らず罰を与えにやってくる。ひどく残酷なやり方で。 「いや?ふ、飯にすっか」 蛇口を捻って冷水を手首にかけた。チリっとした痛みが走ったけれど、血は既に止まっていてべちゃ、と血の塊だけが暗い闇に吸い込まれていった。手首に出来た傷が赤く熱を持って気持ちが悪かった。生ぬるい温度に吐き気がする。 口角を上げて笑うと首に回された腕に力が加わった。(絞め殺す気かよ)。 「なんだよ。きになんじゃんかー」 舌足らずな感じで喋っているところをみると、まだ少し眠いんだろう。猫のように耳元でごろごろと鳴く音が聞こえた気がした。相楽のかみから陽だまりのようなにおいと甘ったるいにおいがしたけれど、この色香は相楽からしていることに気付いた。やさしい子どものにおい。母親を求めて鳴いている子猫みたい。蝋燭のような街灯の下で立ち尽くして誰を待つの。 開いた傷口から乾いた血が流れ出した。さらさら流れ出してあかい筋を作る。鮮血。まるで処女の血液みたいだ。(穢れを知らないなんて、そんなの、嘘に決まってる)(おんなはいつだって嘘つきだ)。 「……かぐらのばか」 「あいたっ」 俯いたまま手首を眺めていると、蛇の如く巻きついていた腕が離れ、おれの頭をぺしんと叩いた。いや、はたいた? 「っんだよー」 カルシウム不足か、とおれが笑うと相楽は「神楽は鉄分不足だな」と笑った。…確かに。 蛇口を閉め、その場にあったタオルで手首を拭いた。後で包帯でも巻いて置けばいいか。心で呟いて振り返った。壁に凭れている相楽を見ると、腕を組んでにたにた卑しい笑い方をしていた。目が合うと、なんだかおかしくなって笑った。つられたのか相楽も笑った。なんだか、ばかみたいだな、おれたち。 「あはっ」 急にだらしなく笑ったかと思うと、抱きしめてきた。そりゃもう力の限りって言葉が合うくらい強く、強く。 「いたいっ。相楽、痛いって!」 「あはん」 (意味分かんねえ!) 語尾に音符でも付いてるのか、って位軽く喘いで真正面からおれを抱きしめた。身長がさほどかわらない所為か、相楽の耳が、髪が、頬に触れる。陽だまりのにおい、子どものような体温。ああ、 相楽だ。 急に愛しくなり、戸惑い行き場をなくした手を相楽の背中に回してやると、ぎゅと相楽の腕の力が増した。伝わる温もりは本物で、相楽の声も匂いも瞳も、全部本物で、ここにいるのは嘘じゃないと確かめ、首筋に顔を埋めた。すると同じように相楽もおれの首筋に顔を埋めた。とくんとくんと動く心臓は体の中に流れてる欲望を止まることなく全身に回す。相楽の心臓もおれの心臓も止まることなく動き続けて、まるで、えいえんに動き続けるみたいだと思った。おれたちは宇宙人とかいう地球外生命体なんかじゃないしアンドロイドみたいに機械じゃない。だから、いつかは老いて死んでしまう。愛し合っていたい、なんて思うけど無理だろうな。だって老いた自分とこいつの姿が想像できない。動き続ける心臓を今此処で止めることが出来たら、それは、幸せなんだろうか。 傷が塞がっていない手首から、また血が滲み始めた。早く手当てしとけばよかった、と思ったけど、もう相楽の服を汚してしまった。赤が映える真っ白なシャツ。ごめん相楽、おれが洗濯するから。心で謝って、腕に力を籠めた。 愛なんて知りたくなかったけど、止め処なく溢れてくる欲望に止まれない。嘘の言葉なんて吐かずに、抱きしめて、触れ合っていたいよ。 「神楽、」 穏やかな声に頭が段々落ち着いていく。 …すこし、恥ずかしい。 「ん」 顔を上げずに一言返すのが精一杯だった。おれらしくない、と、すこし反省しているから。きっと頬は赤く染まっているはずだ。体の熱が顔に吸い上げられてる気がする。 「しあわせだねえー」 ふはっ、と顔を上げてそういった相楽の顔は、おれが一番好きな顔で、ああ、幸せってこういうのか、と口元を緩めた。別に、老いようが死のうが、今はいい。ただ相楽の体温だけ、それだけ。ああ、あと、笑顔。 「……ん」 小さく返して、笑った。 なんだか、朝から疲れた。あ、洗面所の刃、片付けてない。それに確か今日は学校だったはず。まあ、遅刻ばっかしてる奴らが今更休んだってどうもないだろうな。 「相楽」 「うん?」 「飯にすっか」 「おうよ」 離れた体は少し冷えた気がしたけど、すぐに伸びてきた相楽の手が、暖かかった。 別に特別なことを望んでいるつもりはない。ただ傍にいたいだけ。愛したいだけ。壊れたくないだけ。壊したくないだけ。そんだけだ。神様、楽園を追放されても、アダムとイヴは共に居られた。それじゃあ、おれたちが共に居るのも、許して。禁忌なんてだれが作ったんだよ。獣同士でもヤってることだろ。生きたいだけだ。こいつと、一緒に。ま、許されようがされまいが、関係ないんだろうけど。(だって、こんなこというと、さがらはきまってわらうんだ)(あは、って、ばかみたいに)。 ねえ、愛とかいう呪いで縛って。おれも、愛とかいう言葉で助けを求めるからさ。 (子どもみたいに無垢で、子どもみたいに残酷だったね) |