「真白、真白、」

頻りに名前を繰り返して服の裾を引くけれど、その人はぴくりとも動かずベッドの中で死んでいるように眠っている。むかつく位熟睡していて、泣きたくなった。

「ましろ、」

こぽこぽこぽ、と私の後ろで呼吸を繰り返す音が聞こえる。時計も無いくせにどうして水槽を置くのだろう。理由なんて求めていない、というか、ないだろう。在るんだ。ただ此処に存在している。だから真白は世話しているんだろう。手に取るように分かって、やっぱり悲しくなった。
真白の淡いブルーのパジャマを引くのをやめて、水槽のちかくに寄った。こぽこぽこぽ。中で泳ぐ魚たちの名前は分からない。けど、ひかりに照らされ艶やかなブルーがちらちら煌くのは、うつくしいと思う。ゆらゆら水草が揺れるたび魚たちが優雅に舞う。きれいだなあ、とぼんやり見ていると、水槽の向こうに真白が見えた。(ただしくは、水槽の中の鏡に)。

「おは、よう…?」

ゆっくりと体を起こす真白の髪はぴょこんと寝癖が付いていた。ほう、と溜息を吐いて真白のほうに振り向いた。

「もう夕方だよ。こんばんは」
「……ん。そうなんだ。でも、ぼく、おはようがいい」

そうやって微笑む真白の白髪が揺れた。真白の髪は名前の通り白だ。アルビノじゃない。だって目は黒だ。深海のいろ。ひかりのない本当の闇。自分さえ分からない闇の色。私は真白の髪がだいすき。雪のように真っ白で朝日を浴びると透けていって、きらきら銀色にみえる。本当にきれい。瞳の色は同じはずなのに私と違う黒。でも真白はすきって言ってくれた。だから、私も自分の瞳が好き。
よいしょ、とベッドから降りた真白は一度ふらりとよろめいた。けれど良くあることなので無視した。そしてとてとて歩いて真白が向かったのは、今はまた私の後ろにある水槽だった。

「瀧火、瀧火、……そーび!」

ぼう、と見てると名前を呼ばれた。
びくりと体が反応してすぐに真白の顔を見上げる。私はまだへたり込んだまま。

「な、に」

にこにこ笑って、真白は水槽の横の棚から本を取り出した。「魚図鑑-深海魚-」て書いてる。確か私が誕生日にプレゼントしたやつ。こんなのでいいの?って聞いたらこれがいいんだ。て、やっぱりにこにこしながら答えた。
真白はぺらぺらと幾らか頁を捲って、目的の項目を見つけると私に眼前に突きつけた。

「シーラカンス、」
「そう」

太字の下に写真が載っている。ふつう、とはちょっと違うかたち。地味で可愛くもない。分厚い本の中でどうしてこれを選んだの。これがどうかしたの、と目でうったえると真白は本を下げて私の前に座った。つめたいフローリングの床の上、水槽の横に。

「これね、いきている化石って、ゆわれてるんだよ」

「たくさん、たくさん、いきてるんだよ」

すごいよね、とわらう真白は子どもみたいだった。でも深海魚って大抵そうなんじゃないんだろうか。私は詳しくないから良く分からないけれど、そういうもんじゃないのかな。ふわふわ笑うたびに真白の髪が揺れて、なんとなく寂しくなった。ぽっかりと穴が開いてしまったように、すーすーする。この感じを真白は、気づいてなんてくれない。私は真白のこと、何でも分かる、のに。
だって真白は、私を覚えていない。
名前を呼んでくれる。笑ってくれるけど、違う。想いが残っていない。さらさら流れてしまったように、跡形もなく消えてしまった。それか、深い深海に潜り込んだ様に姿を現さない。そうして真白の髪が白髪になって私の事と共に自分の記憶も手放した。それがあの時は最良だったのかもしれない。でも、でも、私の中はからっぽなんだよ。

「瀧火?」

黒い瞳が、まるくておおきな瞳が私を見てる。なんとなくいたたまれなくなって、真白を抱きしめた。男の癖に細い体は今にも壊れてしまいそうだった。うわあ、と間抜けな声を出して真白は私の腕の中にすっぽり納まった。

「ふふ、瀧火はあまえんぼうだなあ」

どっちが、と返さなかったのは真白の手が私の背に回されたから。弱々しいけれどひとを傷付けない手。私は真白の手がすき。

「真白、」
「ほら、瀧火、水そうの音が、心ぞうの音みたいだ」

気持ち良いな、と私の肩に頭を乗せて呟く真白が、すき。
すき、あいしてる。この想いが言葉に出来るはずがない。それよりも、真白が理解できるとも思えない。嗚呼それならいっその事、この心臓を差し出してしまいたい。どれほど真白を想い、求め、泣いているか。きっと彼にも理解できるのに。


部屋の中に響く水の呼吸が私たちを繋いでいるようだった。